5弦チェロの話ばっかりになってしまったが、当初は本来のバッハの音楽について書こうと思っていた。
まず楽譜、出典についてだろう。
バッハの無伴奏チェロ組曲6曲の有力な資料は次のものが上げられる。
1)第1級資料は、アンナ・マグダレーナ バッハ(バッハの2番目の妻。以下AMBと略する)の写譜である。20世紀の中頃まではこの写譜はバッハの自筆だとされていたが現在はAMBの書いたものであることは判明している。AMBはバッハの数多くの曲の写譜を行っているので彼女にとってのはルーティンワークだったろうと思われる。生前そのほとんどの曲が出版されることがなかったバッハの音楽は、例えばカンタータの演奏や、楽譜を希望する人の為に手書きでコピーされていたのだ。しかしこの資料の中にも沢山の疑問点がある。明らかな書き損じ(第5番)、拍が丸1拍抜けている(その間の音は分からない、、第3番アルマンド)などの明白なミスの他にも不可解な臨時記号(第4、6番)等多数ある。
原題はフランス語、イタリア語混在で(この時代はこの2カ国語の表記が圧倒的に多かった)6 / Suites A / Violoncello / senza / basso / Composées / par / Sr. J. S. Bach / Maitre de chapelle となっている。(/は改行)Senza bassoの意味は後で詳しく述べるが通奏低音の無いという意味で、バス声部が無いという意味ではない。因にこの言葉が日本語に「無伴奏」と訳されたわけだが必ずしも良い訳ではないが、ある意味深い訳語ともいえる。
2)バッハ没後一番早い時期のヨハン・ペーター ケルナー( Johan Peter Kellner 1705~72。以下 JPKと略 )の写譜本。ケルナーはバッハの写本を数多く手がけた人でAMBの写本を不完全な部分を(これについては後で述べる)補填していることで大変重要な資料である。こちらの原題は独仏混在で Sechs Suonaten / Pour le Viola de Basso / Par Jean Sebastian / Bach : Pour le Viola de Bassoは直訳すると低音ヴィオラだが「ヴィオラ」が何を指しているのか?この時代ヴィオール、ヴィオラ、ヴィオリーノ、ヴィオロンなどの言葉は多くは弓で弾く弦楽器のことをさすことが多かったので、チェロと理解するのが一番自然だろう。Suonatenは多分誤記だと思うがもしかしてこの時代のドイツ語ではこうだったのか?もともとイタリア語のSonataはSuonare(音を鳴らす)の過去分詞からできた言葉だからその可能性はある。何れにしても"Suites" ではないが、組曲と訳されるSuiteも確定した言葉ではなく、バッハ自身も無伴奏ヴァイオリンやチェンバロ為のそれにはPartitaを使い、フランス、イギリス組曲はSuiteを使っている。音楽の内容的には同一である。因にSuiteはフランス語で「つづきもの」の意、またPartitaはイタリア語で「分割された」と言った意味合い。
3)ヨハン・クリストフ ヴェストファル(1727~99)の写譜本
4)1799年にウイーンで販売された筆者不明の写譜本。
5)1824年に初めて印刷出版された楽譜。出版はパリのJanet et Cotelle(ジャネ&コッテル)題名は Six Sonates ou Etudes pour le Violoncelle Solo Composée par J. SEBASTIEN BACH Ouvre Posthume(遺作)こちらもソナタまたはエチュードとなっている。
この五つの写本のファクシミリがベーレンライターから出ていて、以上の解説はペーレンの解説による所が多い。とくにAMBの写本は以前は、といっても僕が学生時代の頃だが、小さい版のものしか出ていなかったのが、ベーレンライターが普通の楽譜サイズにして出してくれたので大変ありがたい。現在ではこういう写譜本、古楽譜もPterucciで簡単にダウンロードできるようにまでなったことは隔世の感がある。
この他、チェリストにはおなじみのドッツアウアーの校訂による楽譜も出ていて、僕にはこの大変優れたチェリストのバッハを見る目は非常に参考になる。
第5番に関してはリュート組曲(おそらくこちらがオリジナルでチェロ組曲はこの転用)の写本があるので(多分バッハ自身の)疑問点は意外に少ない。
ところがこれだけ沢山の資料がありながらまだまだ、どれひとつ完璧な資料はない。見れば見るほど疑問が増えこそすれ、解けない謎が残る所がバッハのすごい所というか、深いというのか困ったことなのである。なんとなく「群盲像をなでる」感があるのである。
copyrigt Naoki TSURUSAKI